新しいダイアリー(5)

北海道コンサドーレ札幌と釣り

札幌18番出世ランキグンwww

コンサドーレ札幌 Advent Calendar 2013 - Adventar

コンサドーレ札幌アドベントカレンダーにも投稿される記事でありますが・・・正直他の記事が充実しまくっており半端ない場違い感。去年のパワポをそのまま載せることを考えたけど、俺は大学のとき18番だし、18日だし、芳賀さんは18だし、予定通り18番が札幌の出世番号だというのは本当なのか検証する

結論から言うと本当

9位 深井一希(13~)

ご存知現在の18番深井。でも出世はこれからのお話。怪我さえ克服できれば、これからリオ五輪を目指す世代別代表、フル代表へと出世していくでしょう。まだ思い出とも言えないほどに記憶が鮮明なため、書くことがありません。早く靭帯つなげてください

出世度:☆(これからに期待)

8位 桑原剛(05)

キレのあるドリブルと精度の高いプレースキックに目をつけた腹芸部長(当時)の誘いを受けて札幌に入団が内定。高校サッカーで色々と有名になり、札幌でもルーキーイヤーから活躍。主に砂川との交代でトップ下に入るパターンが多かったように思います。翌年18番をもらうと一転して出場機会が与えられない日々。走力のなさが響いた結果か・・・しかし06年に水戸にレンタル移籍するとここで32試合出場とブレイク。柏レイソル戦では殊勲の同点ゴールもあげています。これは翌年札幌帰還待ったなし!と思われたのですが・・・07年は草津にレンタル移籍。こちらでは怪我の影響もあって21試合の出場に留まり、残念ながら札幌と草津の双方から契約満了となってJの舞台をあとにしました。その後、来年からJ3に参戦する福島ユナイテッドの創立メンバーとして14試合10得点と大活躍し、東北1部昇格の原動力となりました(桑原が加入する前年までは「ペラーダ福島」)。まだまだできると思われていましたが、もともとあまりスタミナのある方ではなかったうえに怪我のせいで動ける時間が減り、病床の父のそばに居てあげたいという思いもあって、09年に現役を引退し地元にUターン就職した模様です。

出世度:☆☆☆(札幌では活躍できませんでしたが水戸・福岡でサポーターの記憶に強く刻まれました)

現在はアリさんマークの引越社で働きつつ福岡を中心に少年サッカー指導員として活躍していることが判明しています。

7位 河端和哉(04)

2003年に札幌大学在学ながら特別指定選手としてデビュー(ソダン大作戦9分で終了の日です)。自陣に引きこもる湘南めがけてオープントスを放り込む姿が今でも思い出せます。が・・・翌年の記憶が全くござらぬ。何でもリーグ戦に1試合だけ出ているらしいですが全く思い出せない。本職CBなのに174cmしかないから全く出られなかったのか、伸びしろがないと判断されたのか・・・練習でチームメイトを怪我させるなんていう根も葉もない噂すら立った・・・そのまま04年終了後に当時九州リーグの熊本に市村篤司とともに移籍すると徐々に頭髪が・・・じゃなくて徐々に頭角を現します。当時のロッソ熊本は2005年は全国地域サッカーリーグ決勝大会3位でJFL昇格を決め、2006年はいきなりJFL5位と健闘、2007年はJFL2位と着々と順位を上げてJ2昇格。河端がJFL・J2昇格にいくらか貢献しました(JFL時代に合わせて5試合しか出てないけど)。2008年にはついに河端自身が33試合出場と、まとまった出場機会を得ます。DFがいかに経験がモノを言うポジションなのかわかる気がしますね。翌2009年も河端はレギュラーCBとして起用され続け、荒谷のおもしろオウンゴールや吉弘のおもしろ守備にキレてクライトンが退場した試合や、前半で熊本が10人になったのに大伍の空振り一発で負けた試合にも出てます。つーかこの年ついに熊本に勝ってねえなこいつら。2010年からはJ2に新規昇格した北九州に加入。交代していく高木純平に謎のレッドが出て横野の出場給がパァになった試合にも出てますね。2011年は三浦(ヤ)と合わなかったのか出場なしに終わり、2012年は戦いの場を再びJFLに求め、長崎にて今度はなんとJFLのMVPを獲得(今知ったけど)。キャリア最高のシーズンだったと言ってよいでしょう(今知ったけど)。今年また会えると思っていたのに、何故琉球にレンタルされているのか。全く人間のやることは理解できないよ

出世度:☆☆☆☆☆(札幌を出てから色々なチームで活躍してるのに調べないと出てこない事ばかりだよ)

6位 芳賀博信(06~12)

この選手は背番号18のまま出世をし続けました。正直言って2006年に入ってきた時は誰だよコイツ程度にしか思ってなかったです(04年にジェフリザーブズとして天皇杯に出ましたね)。しかし、その攻守における1対1の強さと、そのクオリティに見合わない微妙なクロス、バーに当てまくるシュート、でもとにかく運動量があって音を上げないタフさ、ウイイレでナイジェリアばかり使う謎さなど様々な魅力ゆえ、すぐに札幌で存在感を確立しました。中でも、天皇杯新潟戦では北野に触られながらもサイドネットにPKを決め、スタンド観戦するかつてのチームメイトにガッツポーズをするなど、情に厚いところが最も魅力的だったと言えるでしょう。

07年からは運動量を生かした守備的ポジションに主戦場を移します。170cmちょいという身長でありながらあの三浦(俊)にセンターラインのレギュラーとして起用されたのは、どこにでも顔を出す献身的プレーゆえのものでしょう。08年は崩壊してゆくチームの煽りを受けて若干出場機会が減りますが、ボロボロになりつつあったチームがサッカーの体を守っていたのは、ダヴィクライトンと芳賀の活躍あってのこと。

オフにオファーがあっただのなかっただのとありましたが、09年以降もチームに残留。三浦(俊)から解放されて過剰なほど奔放になる中盤を締め、固定できなかったSBにも緊急登用され、ダメダメチームにおける「やれやれ、また俺の出番か」と登場する頼れる兄貴分キャラになっていきます(俺の艦隊で言うと長門改です)。翌2010年は輪をかけて奔放になっていく中盤において、苦手な組み立てにも従事し、ほぼ1人で仕事をしていたと言っても過言ではないでしょう。(芳賀に大いに迷惑を変えたのが、今では中盤で鬼神のごとく体を張りボールを散らせる上里、献身的にボールを拾いに行けて気の利いた顔出しができる選手になった宮澤というのも感慨深い。)しかし、このシーズンの無理がたたったのか、2011年はシーズン前半に怪我、最終盤に復帰するも、守備固めで奮闘しまた同じ場所を怪我、2012年にまた手術し、早すぎる引退となってしまいました。この時の、7年間どんなコメントも短く、プロフィールも空欄ばかりだった芳賀の、「僕自身、コンサドーレ札幌では例え足が痛かろうが何だろうが、全てを捧げ闘ってきたという自負があります。」というコメントは、我々サポーターだけでなく、現在所属する選手たちへの強いメッセージだったのではないでしょうか。少なくとも、俺が「一番好きな選手は?」と聞かれたら芳賀と答えます(なお、人前では恥ずかしいので石塚啓次と言っておくもよう)

出世度:☆☆☆☆☆☆☆☆(18から何かになったというわけではないけど、俺達の心に大きな何かを残していったよ)

蛇足ではありますが,今年7月24日に札幌市内の某服屋で俺が試着室で試着を終え,カーテンを開けたら芳賀さんがいました。

5位 山瀬功治(01)

正直言ってあまり好きな選手ではないので書きたくないのだが、18番ではあったのでしょうがないから、書く。2000年は湘南戦のVゴールとかちょいちょい活躍してチームエメルソンの昇格にちょっと貢献すると、2001年(18番の年)に大化けしレギュラーを完全確保。神戸戦で30mはあろうかというスーパーミドルを決めるなど24試合3得点で新人王を獲得。ちなみにこれが札幌のJ1における最後の個人タイトルです。翌2002年は崩壊していくチーム(あれ・・・?心なしかこのワードがよく出るな・・・)にあって孤軍奮闘し4得点をあげるも1stステージ最終節に大怪我。そのままなすすべなくJ2降格をキメた札幌を潔く見切り、よりによって浦和に行きやがりました。千羽鶴とか折ってたんだけどね。この時の「環境の良い味方の強いチームに行くのはプロとして当然」的なコメントが札幌サポーターの心に火をつけ、今では烈火のようなブーイングの的の1人です。札幌のチーム事情によって、5年ほど直接ブーイングすることがなかったのは気のせいですね。浦和ではトップ下のレギュラーを確保してナビスコ杯優勝に貢献、翌年はアテネ五輪最終予選のメンバーに入るなど順調にスターダムを駆け上がりますが、その年の夏に前とは逆の足を大怪我。翌年に期待が持たれましたが、その年のオフに何と横浜に移籍。そのエピソードはここでは省略しますが、とにかくもう他人になっていたはずの俺にとっても衝撃的な出来事でした(詳しくはこちら)。横浜では腰痛によるコンディション不良ながらも2005年19試合1得点、2006年20試合6得点とそこそこ活躍し、コンディションが整った2007年はついに32試合11得点とブレイク。代表にコンスタントに呼ばれ出すとともに、この頃から山瀬でググると山瀬まみより上に来るようになりました。あと地味に日本代表にて東アジア選手権得点王。単にサッカー選手として最も出世したのはこの人で間違いない。

2010年頃から下降線を辿り、横浜で出場機会を失い、川崎でサブ、J2の京都へ移籍と段々と札幌に近寄ってきた気がしないでもない。できれば札幌以外で札幌戦以外で活躍してて欲しい、俺はそのくらいの距離感ですね

出世度:☆☆☆☆☆☆☆☆☆(生涯年俸が一番すごい)

4位 吉原宏太(97~99)

96年開幕戦スタメンFW(当時38番)。97年から18番をつけて開幕戦スタメンFWにしてチーム日本人得点王。98年Jリーグ34試合11得点。99年J2で32試合15得点し日本代表選出。その輝かしい活躍に、札幌の初代18番はコータだと思ってる人もいるかもしれません。ちゃいます

大事に育てた日本人選手を奪われるという札幌パターンの第1号といえるコータですが、移籍初年度は小島宏美の後塵を拝したこと、また交換するかのようにやってきた播戸の活躍(特にガンバ戦のガンバベンチ煽り)ですっかり存在感がなくなっていきました。かと思ったらその小島宏美が札幌でからっきしダメ、曽田(FW)も堀井も清野も相川も微妙、新居は逮捕と札幌の日本人ストライカーがすっかりしおしおになり、吉原本人もガンバでの地位が微妙になっていくにつれ、復帰が熱望されるようになっていった感じがあります(その後オフのたびに札幌駅で目撃される)。ガンバを出て大宮に移籍してからは得点力が霞んでいき、2008年に再会した時はほぼ何もせずに森田と交代してしまったのは、時の流れを感じずにはいられませんでした。このオフに水戸から単年500万のオファーを受け「水戸にとって1億円の評価を頂いた」とコメントしたというぐう聖エピソードも。しかしこの水戸移籍が意外といい方向に。高崎とのコンビは破壊力抜群で、水戸を8位と大躍進させました。この時9月の札幌戦でも得点していますが、俺にとってはそのことよりもキリノが本間を抜いてゴールに迫ったのに本間がキリノを抱え倒してノーファールだったこと、吉弘への平川コメントが「はねさせんな」一言であったことの方がよく覚えており、申し訳ないの一言です。その後は寄る年波には勝てず、大怪我もあり、札幌復帰は叶わぬまま引退し、指導者として札幌に帰還することになりました。

出世度:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(札幌の18番を経て以降、最も得点が多い)

3位 高木琢也(00)

正直言って札幌の18番としての記憶は無いに等しく申し訳ない(日本代表としての輝かしい成績も、どうも影が薄いファルカン時代がメインで、カズと城の間って誰だったっけ・・・ってなっちゃう)。札幌ではエメルソンがイエローたまった時に出てくる人というイメージしか無い。しかし、指導者転身が大当たり。シンプル志向の低予算チームには売れっ子監督になる。しかし、フロントとは何かと確執を生みやすい。チームの好調が2年続かないのが弱点。来年はどうなるのかな。芸能人は浜田省吾以外興味がない。

出世度:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(引退後のキャリアとして最も地位が高い)

大変申し訳無いのですが、あまり好きなタイプの戦術ではないし、選手としての記憶も薄い(主にカズ中山ラモス武田のせい)ので、Wikipedia、見てやってくださいィ・・・

2位 足立恵蔵(96)

96年開幕戦のスタメン右SBなんですが誰か覚えていますか?当時生まれてない25歳の俺は頑張って調べあげました。すると・・・

元日本代表の平川やヴェルディ優勝メンバーのペレイラとともに右SBで先発した足立ですが、典型的な攻撃特化SBであり、初期のコンサドーレは足立の裏を突かれるパターンで守備がボロボロだったようです。次第に渡辺晋(こっちは知ってるぞ!)にポジションを奪われるように。JFL5試合出場に終わり、1年でコンサドーレを離れた足立ですが・・・今では何と!

埼玉園芸 資材卸 係長

http://www.saien.co.jp/staff/staff_detail406.php

園芸会社の係長になっているではないか!

好きな花:ひまわり、桜

はっきり言って本当に花が好きなのか疑わしい選出ではないか!何でこの会社に元サッカー選手が?と思ったら「サッカー部(現在は廃部)」の文字が・・・これはいかん。経緯を調べねば・・・

そして出てきたのがこちら

http://niwaki2008.web.fc2.com/bicho/adachi.html

間違いない。足立恵蔵その人だ。前所属の「saien」が埼玉園芸さんのサッカー部ってことなのだろうか。

それにしてもこのチームは面白い。チームの沿革に突如として登場する「アルゼンチン語」というワードで俺を悶絶させたと思いきや、試合でメンバーが2人足りなかったり(私も府中でサッカーをしていた頃にはよくあった)、埼玉2部まで一気に上がったと思ったら急に川口市リーグで残留争いをしているなど、苦労を感じさせてくる。かと思ったら背番号1がFWだったり、2もFWだったりして笑わせて来るのだが、96年にコンサドーレにいたGK新町光寛がいる(しかもFWで出てる)というオチを付けてくれた。もちろん、この年のGKは白井と森しか覚えてないのだが・・・

出世度:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(唯一管理職になったので)

こういうサッカーの続け方って憧れるなと思う

1位 曽田雄志(02~03)

言わずと知れたネ申。もう何も語る必要はありません。ここで曽田伝説を貼り、筆を置かせていただきます。

・幼稚園で跳び箱13段
・北海道一の進学校札幌南高校卒
・一般入試で筑波大学進学
筑波大学でレギュラー
・関東大学リーグでベストイレブン
・全日本大学選抜入り
・複数のJチームからオファーも,地元札幌を選択
・卒研がサッカー
・ルーキーイヤーから重用(まだ23番)
・CFから何とCBに転向していきなりスタメン(ここから18番)
・ボランチに入りマグロン(当時J1最長身FW)をマークし完封勝利に貢献
・モチベーション維持が困難な状況で奮闘
・初ゴールは絶妙な左足キック
・降格決定後の最終戦で途中出場ハットトリック
・J最後のリーグ戦Vゴール
・監督が代わってもCBとして重用(一部事情によりしょうがなく起用していたところもあるけど)
「天空の覇者」(「天空の支配者」とも)と呼ばれる(このへんから4番)
・トゥイード選手(192cm)の三ツ沢最終試合で,ロスタイムにトゥイード選手に競り勝って決勝点
・ロングシュートも結構決める(何故かボテボテが決まる)
ブルーノ・クアドロスとのコンビでJ2最少失点での昇格に貢献
しかも7得点(3位)
・緊急GKも経験し全ポジションでの出場を記録
・たび重なるけがを克服
・しかしついに膝が悲鳴をあげ引退を決意
札幌公式サイトに手書きメッセージ
・全札幌サポはおろかJ全体が涙
・2009年ホーム最終戦で強行出場
・PKを自ら獲得
・一度外すがGKが早かったという神判定
・カズさん,三浦アツから「決めろ」との声をかけられる
・今度はGKの逆を突いて決める
・札幌ドームが涙に包まれた引退セレモニー
・「未練はあるが後悔はない」という名台詞
・J通算232試合20ゴール
・これは砂川誠に抜かれるまでコンサドーレの出場数の最多記録
・引退後はMBAの取得を目指す
・その留学直前に東日本大震災発生、自身の留学よりも復興支援を優先しMBA取得はペンディング
東日本大震災の被災者支援活動のため自らリーダーとなり北海道のアスリートで「EN Project Japan」結成
・南三陸に靴を届ける
・チャリティーのためメンバーで長靴ホッケーを開催
・豊平川でおぼれた男性を800m走って救助
・その際に駐禁を取られる
・2013年最終節に向かう際にズボンのチャックが破損←New!

出世度:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(18からネ申へと出世)