新しいダイアリー(5)

北海道コンサドーレ札幌と釣り

ノマド門

ある日の真昼の事である。一人の下人が神宮前6丁目のガード下で涼をとっていた。
ガード下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々ペンキの剥げた、大きな橋梁に、セミが一匹とまっている。山手線が、明治通り沿いにある以上は、この男のほかにも、涼をとる女子高生やチャラ男が、もう二・三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二・三ヶ月、東京には、猛暑とかゲリラ豪雨とか云う災がつづいて起った。そこで都内のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。都内がその始末であるから、神奈川県南部や埼玉などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、DQNが棲む。不良が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない社員を、茨城へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この橋の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
(中略)
申の刻下がりから照りだした日は、いまだに陰るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り暑さをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから明治通りを走るトラックの音を、聞くともなく聞いていたのである。
日は、渋谷をつつんで、遠くから、セミのなく音をあつめて来る。太陽は次第に角度を低くして、見上げると、カラオケシダックスが、斜につき出した甍の先に、軽くうすい雲を支えている。
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、築土(ついじ)の下か、道ばたの土の上で、乾き死にをするばかりである。そうして、宮下公園へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊(ていかい)した揚句に、やっとこのスタバへ逢着(ほうちゃく)した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「ノマドになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
下人は、大きな嚔(くさめ)をして、それから、大儀そうに立上った。日照りのする渋谷は、もう水桶が欲しいほどの暑さである。熱風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。ペンキ塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。
下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くしてスタバのまわりを見まわした。雨風の患(うれえ)のない、人目にかかる惧(おそれ)のない、夕方まで楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、休憩しようと思ったからである。すると、幸いスタバに空席が眼についた。平日昼のスタバなら、人がいたにしても、どうせJKばかりである。下人はそこで、腰にさげたThinkPadX61がバレないように気をつけながら、サンダルをはいた足を、その入り口の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。スタバのレジで一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、席の容子(ようす)を窺っていた。楼の上からさすおしゃれな照明が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤黒いメガネのある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、JKばかりだと高を括くくっていた。それが、階段を二・三段上って見ると、上ではPCを開いて、しかもそのキーボードをそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々にインテリアを配置した壁に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この平日の昼に、このスタバで、PCを開いているからには、どうせただの者ではない。
下人は、守宮(やもり)のように足音をぬすんで、やっと急な階段を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平(たいら)にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、席を覗いて見た。
見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかのJKが、ショートのドリンク1本で粘っているが、日の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中にかわいいJKと、そうでもないJKがあるという事である。勿論、中には中学生も大学生もまじっているらしい。
下人は、それらのJKの香水に思わず、鼻を掩(おお)った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
下人の眼は、その時、はじめてそのJKの中に混ざっている人間を見た。サルエルパンツを着た、背の低い、痩せた、おしゃれメガネの、リア充のようなノマドである。そのノマドは、MacBookAirを持って、そのモニタを覗きこむように眺めていた。アイコンとちっちゃい文字列を見ると、多分Twitterであろう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。するとノマドは、iPhoneを、MacBookAirに挿して、それから、イヤホンに手をかけると、丁度、iTunesでダウンロード購入をはじめた。
その音楽が、一本ずつ落ちるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、このノマドに対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、このノマドに対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき橋の下でこの男が考えていた、乾き死にをするかノマドになるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、リア充の何でもないポストにつくイイねのように、勢いよく燃え上り出していたのである。
下人には、勿論、何故ノマドが家でできることをスタバでやるかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この猛暑の昼に、このスタバで、長い時間席を占有すると云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、ノマドになる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
そこで、下人は、ティーラテのグランデを持ち、いきなり、ノマドの隣を目指した。そうしてThinkPadに手をかけながら、大股にノマドの横へ座った。ノマドが動じないのは云うまでもない。
(中略)
下人は、ノマドのPCを覗くと、いきなり、Wordを開いて、打鍵の速度を見せつけた。けれども、ノマドは黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、Facebookを見たりGmailを見たりしながら執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこのノマドの生死が、全然、「常に友達とつながっている感(笑)」に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、ノマドを見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「己(おれ)はノマドワーカーなどではない。今し方この前の道を通りかかった旅のSEだ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分このスタバで、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
SNSを見つつな、iTunes経由で音楽編集しようと思うたのじゃ。」
下人は、ノマドの答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。ノマドは、片手に、まだ氷が残ったフラペチーノを持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、席を占有すると云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいるノマドどもは、皆、そのくらいな事を、してもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、DLした曲などはな、大していい曲じゃないのを、名曲だとだと云うて、CDTVが売りに往(い)んだわ。アニソンに負けてランク落ちしななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、CDTVの売る歌手は、曲がよいと云うて、学生どもが、欠かさず話題作りに買っていたそうな。わしは、CDTVのした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、ぼっちになるじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたCDTVは、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
ノマドは、大体こんな意味の事を云った。
下人は、ThinkPadを鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、ズレた赤黒いメガネを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき橋の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこのスタバへ上って、このノマドを見つけた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、乾き死にをするかノマドになるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、乾き死になどと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
ノマドの話が完(おわ)ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をメガネから離して、ノマド横に座りながら、噛みつくようにこう云った。
「では、おれがノマドをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、乾き死にをする体なのだ。」
下人は、すばやく、VisioAcrobatを起動した。それから、先週から続く仕事の残りを、手荒くやっつけで倒した。明日の納期までは、僅に20時間を数えるばかりである。下人は、ThinkPadをわきにかかえて、またたく間に急な階段を渋谷の街へかけ下りた。
しばらく、死んだようにSNSをしていたノマドが、スタバの中から、その体を起したのは、それから間もなくの事である。ノマドはつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている日の光をたよりに、階段の口まで行った。そうして、そこから、渋谷の街を覗きこんだ。外には、ただ、わけわからん曲を流す宣伝トレーラーが走るばかりである。
下人の行方は、誰も知らない。
【追記】

下に見きれるのがMBAです.このシリーズで初めて本物に出会いました.大崎で見た会議はもっと無骨な奴だったので・・・
※このスタバは実際は1Fにあります